一 / 防御構想
地下陣地を結ぶ持久防御
従来の島嶼防御で繰り返された水際の迎撃と大規模な突撃を改め、栗林は洞窟、トーチカ、坑道を結ぶ防御を選びました。米軍の圧倒的な艦砲・航空火力の効果を減らし、相互に援護する陣地で進攻を遅らせる構想でした。
序章 / 明治二十四年—昭和十九年
栗林忠道は1891年、旧松代藩郷士の家に生まれました。陸軍士官学校を経て、1920年代にはアメリカ留学・駐在を経験。巨大な生産力を目の当たりにし、対米戦の困難さを認識していたと伝えられます。
1944年6月、第109師団長として硫黄島へ。東京から約1,200キロ南、長さ約8キロの火山島で、兵士たちと地下陣地を築きます。帰還できない可能性を知りながらの赴任でした。
第109師団司令部を設置
米軍約7万人、日本側守備隊約2万1千人
2月19日から3月26日
戦況概略図 / 昭和十九年—二十年
栗林忠道の着任から戦闘の終結までをたどります。赤い「凸」は日本側守備隊、青い「凸」は米軍上陸部隊のおおよその位置です。
※ 位置・進路は解説用の概略図です。縮尺、部隊数、個々の陣地配置を正確に再現した作戦図ではありません。資料によって日付・兵力・損害数に差があります。
一 / 防御構想
従来の島嶼防御で繰り返された水際の迎撃と大規模な突撃を改め、栗林は洞窟、トーチカ、坑道を結ぶ防御を選びました。米軍の圧倒的な艦砲・航空火力の効果を減らし、相互に援護する陣地で進攻を遅らせる構想でした。
二 / 失われた命
米国国立公文書館の解説では、米軍は約7,000人が戦死し、19,000人以上が負傷。日本側守備隊約21,000人の大半も亡くなりました。この数字には、戦地へ送られた一人ひとりの人生があります。
三 / 最後の言葉
3月、栗林は大本営へ訣別の電報と辞世を送りました。米軍が島の確保を宣言した後も戦闘は続き、3月25日から26日に最後の組織的攻撃が行われます。戦死後、栗林は陸軍大将に進級しました。
国の為
栗林忠道 / 明徳寺境内の顕彰平和宣誓碑
重きつとめを果し得で
矢弾尽き果て散るぞ悲しき
四 / 明徳寺
栗林の遺骨は確認されておらず、明徳寺にあるのは故郷の墓碑です。墓碑は戦功を称えるためだけのものではありません。指揮官の決断と戦場の現実を知り、失われた双方の命を悼み、戦争を繰り返さないために過去と向き合う場所でもあります。

典拠