武田氏の家臣として
信玄・勝頼を支えた武将
高坂弾正として知られる高坂昌信は、春日虎綱とも呼ばれ、武田信玄と勝頼に仕えました。境内案内板では、二十六歳で騎馬百五十騎を預かる侍大将となり、海津城を任されたと紹介されています。現在広く知られる武者絵は、没後二百年以上を経た江戸時代末期の作品であり、同時代の肖像ではありません。

一五二七—一五七八
高坂昌信(春日虎綱)は、武田信玄・勝頼に仕え、海津城代を務めた武将です。「高坂弾正」の名で親しまれ、北信濃における武田氏の重要な拠点を預かりました。
現在の松代城へとつながる海津城と、再興に力を尽くしたと伝わる明徳寺。二つの場所を軸に、地域に残された高坂弾正の足跡を見つめます。
北信濃における武田氏の拠点を守る
寺を再興した人物として伝わる
松代の歴史を伝える場所として残る
武田氏の家臣として
高坂弾正として知られる高坂昌信は、春日虎綱とも呼ばれ、武田信玄と勝頼に仕えました。境内案内板では、二十六歳で騎馬百五十騎を預かる侍大将となり、海津城を任されたと紹介されています。現在広く知られる武者絵は、没後二百年以上を経た江戸時代末期の作品であり、同時代の肖像ではありません。
海津城代
武田信玄は北信濃支配の拠点として海津城を築き、高坂昌信が城代を務めました。海津城はのちの松代城です。境内案内板には、永禄四年(一五六一)の第四回川中島合戦後、敵味方を分けず戦死者を丁重に葬ったとする伝承も記されています。
明徳寺の中興
明徳寺の由緒と長野市立博物館の資料では、高坂昌信が衰えていた明徳寺を再興し、玉山春洞大和尚を招いて曹洞宗寺院として整えたと伝えられています。寺に残る文書は、明徳寺と戦国期の領主との関係を今に伝えます。
松代に残る記憶
境内には高坂昌信の墓所が残されています。人物を英雄として飾るだけではなく、海津城と寺、戦国期の松代がどのようにつながっていたのかを考える入口です。墓所では静かに手を合わせ、墓域へ立ち入らずにお参りください。

典拠